ハイデルベルグ信仰問答6問

第六問 それでは神が人間をそんなに悪く心のねじれたものに創造されたのですか?

答え  いいえ、そうではありません。神は人間を善く、またご自身の像に似せてすなわち、真の義と聖とにおいて創造されました。それは、人間が自分の創造主である神を正しく認識し、心から愛し、永遠の祝福の中に神とともに生き、神をほめたたえ、賛美するためであります。

 

(一)創造における人間

生来、神と隣人を憎む傾向を持っているということは、神が人間をそのような悪いものに創造されたのか?と問うのが第6問です。心の「ねじれ」というのは、さかさま、顛倒という意味です。心が神の律法すなわち、神を愛し、隣人を愛するというような動機で動かずに、神と隣人を憎み、自己を愛するという動機で意志を規定しようとする態度です。

人は、本来の心の在り方とは違った、ひっくり返った心の動機をもってます。それは腐敗した心なのです。神と人を、神が求められるように愛することはできません。しかし、神は人間の心をそのようにお作りになったわけではないのでした。

『神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。』創世記1:31。

人が神に背いて罪が世に入ってから、カインがアベルを殺し、血は茨とアザミを生じ、人間の労働は額に汗する苦役となりました。その前は、この世は甚だよかったのです。被造世界にある全ては、一木一草に至るまですべて良いものだったのです。特に神の像に創造された人間は、心の顛倒したものとしてではなく、神を愛し、隣人を愛し、地をいつくしむものとして創造されました。

『神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」』(創世記1:26-28。

バルトが言ったように、三位一体の神の御人格の中に、「語りかける我」と「語りかけられる汝」の人格的交わりと熟慮によるご計画があることが示されています。人間が神の似姿に創造されたということは、神と人間の関係が人格的な応答関係であり、人間とその隣人との関係も人格的な応答関係であることを示しています。

神の似姿がどこにあるか?
本来は人間は神のご意志に従って、神と隣人を愛する存在者であるというところにあります。神は愛だからです。アウグスティヌスは次のように語りました。

「もし君が永遠の愛を見るならば、君は三一の神を見ているのだ。なぜなら三とは、愛する者と、愛される者、そして愛そのものなのだから。」

このように唯一の神は、ご自身の中で互いに深く愛し合い、親しい交わりの中に生きておられる神なのです。神学者レオナルド・ボフはこのような言葉を残しています。

「神は孤独なものではなく交わりであると我々は信じている。主たる、第一のことは『一』ではなく『三』なのだ。三が最初に来る。その後、『三』者の間の親密な関係のゆえに、三者の一致の表現として『一』が来る。三一神を信じることとは、存在するすべてのものの根源として動きがあるということである。生命の、外への動きの、愛の永遠のプロセスがあるのである。三一神を信じるとは、真理は排除より交わりの側にあるということを意味している。」

 

神は人間を神と人と愛することのできる存在として甚だ善く創造されました。人間は愛において、人格的な交わりにおいて生きるという点で神に似ている存在者なのです。

つまり、人間は、本来孤独な存在ではなく、自己充足的、自己完結的な個でもなく、本質的に社会的存在として、交わりの中に生きる者として創造されたのです。神の像である人間性は、自分の外にいる人々とのかかわり、共同体、交わりにおいてのみ現実となるものとなるのです。
わたしたちは、独立的、自己充足的な独りぼっちの中で、自分一人だけでは、人間としていきられません。ただ神と人とのかかわりに、自分の存在そのものの意味を発見するときにだけ、わたしたちは真に人となり得るのです。

私たちが男であるか女であるか、どちらかであるということは、孤立した一個人の中には、私たちの人間性を見いだせないということです。
私たちの人間性は、自分の外にいる、自分とは違う『他の人』あるいは『他の人々』との交わりの中でだけ、見いだすことができます。

こうして人は、互いを人格として認め合い、「我-汝」関係(人格的関係)の中で生きる者として創造されました。
人間が互いをまるで機械でも扱うかのように、「我-それ」関係(非人格的関係)として扱うようになったのは、堕落したからに他ならないのです。心が少しも触れあうことなく、機械的・事務的に互いが交わり、適当に当り障りなく付き合うようになったこと、ましてや人間関係が重荷になり、心の病の原因となり、心を圧迫してストレスになっているという現実は、人間の本来の姿でも在り方でもありません。

真実に誠実に互いを受け入れあい、認めあって、互いの交わりが喜びとなる関係、そこに人間は生きる者とされています。
この「共に生きる」こと、つまり共同的な人間性、そして互いに交わりに応答するという応答的責任性こそ、「神の像」として創造された人間の本質です。
そして何より、この「共同性」は、神との関係における共同性であり、神との交わりに生きる者として、そもそも人間は創造されています。このように最初の人間は、神御自身に似せられた者として創造され、しかも善き者としてまた従順な者として創造されたのです。

『心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。』(エフェソ4:23-24)

『造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。』コロサイ3:10。

ここには、神の像を喪失した人間がイエスキリストにおいて神の像に再創造された新しき人の誕生が語られています。
人間のキリストにおける再生は、知識と義と聖における再誕生を意味しています。

 

(二)人間の創造の目的

『それは、人間が自分の創造主である神を正しく認識し、心から愛し、永遠の祝福の中に神とともに生き、神をほめたたえ、賛美するためであります。』

知識において神の像に創造されたということは、自分の創造主である神を正しく認識するためです。これが認識的意味における神の像です。この意味で神の像を喪失し、創造主なる神以外のものを神とするところに人間の悲惨の原因があります。

義において、神の像に創造されたとは、人間が「自分の創造主である神を心から愛する」存在であるということです。神の義、神のご意志である神の律法に従って生きる存在であるということで、これが倫理的意味における神の像です。

そして、聖において神の像に創造されたとは、悪い欲望を持たず、聖い心で生きるということです。聖とは神との関係、神の所有をあらわす言葉なのです。神の者として自分自身を捧げる生活、神との正しい関係において生きることを意味しています。先ほど引用したエフェソ4章は、『神にかたどって作られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく聖い生活を送るようにしなければなりません。』と言っています。

神の像に創造された人間と神との関係は、根本的な生命の契約関係です。人間は神のご意志である律法に従う時に、生命と祝福の道を行き、これに違反するときに死と滅びの道を行きます。つまり、これは生命的契約の関係です。人間は創造の時に、神の律法を心に刻み込まれた存在者なのです。

人間は真の神を正しく認識し、神のご意志である律法に従い、この神を心と精神をつくして愛し、隣人を愛するように要求されています。
神への愛と隣人への愛、このように神の律法を遵守するか、違反するか、それは人間の神に対する応答です。人間は神の律法に応答する責任を負う存在です。つまり、神を愛し、隣人を愛し、地を従わせ慈しみ、神が人とともに住み給う神の国を建設しなければなりません。「地を従わせよ」とは、神の律法を心に刻まれ神の像に創造された人間に、同じく創造の時に与えらえた創造命令、文化命令です。それは「永遠の祝福の中に神とともに生き、神をほめたたえ、賛美するためであります。」の目的を持っています。

これは、すなわち神を礼拝するということであり、またそのためのものでありました。
神を礼拝することは、したければすればよいといった任意のことではなく、人間が創造された本来の目的そのものなのです。それは、人間としての存在意義そのものです。
信仰とは個人的な事柄で、あくまでも私的でプライベートなことだと考えてはなりません。神を礼拝することこそ、人間としての本来の務めであって、それは公務であることを聖書は明らかにしています。神を礼拝することは、私たちの人生の目的そのものであり、私たちが「神の像」に造られたものとして、被造物を代表して為している、公の任務なのです。

『そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造りなお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。』(詩篇8:5-7)

神の御人格の交わりの中にある栄光の反映が、神と人との関係、男と女との関係、人間と隣人との関係、人間と被造世界・自然との関係、すべての関係における愛として照り返すのでなければなりません。

神との関係は宗教で、隣人との関係は倫理で、被造世界との関係は文化です。
私たちは対神、対人、対世界というあらゆる実在関係において、神の栄光をあらわすべき存在なのです。

ウェストミンスター小教理問答は、第一問において「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」と述べました。それは、このハイデルベルグ信仰問答の第六問の問答とまったく一致しています。

また、人生の目的を「神を知ること」と答えたジュネーブ教会信仰問答の精神とも一致しています。
ハイデルベルグ信仰問答のこの答えを、このように言い換えてもよいでしょう。人の主な目的は、「創造主である神を正しく認識し、心から愛し、永遠の祝福の中に神とともに生き、神をほめたたえ、賛美することであります。」と。神が人間をご自身の像に似せて、似姿を担う者として、知識と義と聖において創造されたのは、私たちが心から神を愛し、隣人を愛し、永遠の祝福の中に神と共に生きるためです。

神は決して人間の心を初めからねじれた、さかさまなもの、神と隣人を憎む顛倒した動機の心に創造されたわけではありません。
そして、次の第七問は、罪と悲惨が契約の代表者である私たちの父祖の最初の違反から来たことを教えます。