ハイデルベルグ信仰問答 第9問

第九問 それでは、神は、律法において、人間が行うことができないことを要求することによって、人間に不正をなしたもうことにならないでしょうか?

答え いいえ、そうではありません。神はそれを行うことができるように人間を、創造されたからです。けれども人間は悪魔にそそのかされて、故意の不従順によって自分自身とすべての子孫とからこの賜物を奪ってしまったのです。

さて、このような人間の本性の腐敗と全的堕落、善に対する能力について人間の行う神に対する反論です。この反論自体が、本性の腐敗と全的堕落を証明しています。
この状態から脱却する第一の試みは、神の側に不正があると訴えることだからです。神は堕落後の人間に、人間が行うことができない律法を未だに要求するのは、神の側の不正ではないか?と反論しているのです。

人間は、神の律法を行うことができないのだから、神が要求のレベルを下げてしかるべきではないだろうか?人間の堕落し、腐敗した知性と意志と正義の尺度で神の正義を訴えるのだろうか?という叫びです。

「ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。」(ローマ9:19-20)

 

ヘルマン・ヘックマセは、興味深い例を挙げています。何千万円のお金を前払いしたのに、建築業者が、それを不正に使用して建築が不可能になりました。建築依頼主が建築業者になお家の建築を要求することは依頼主の不正なのだろうか?と。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」この律法は、普遍的な神のご意志です。
人間が知識と義と聖とにおいて神の像に創造されたのは、人間が創造主である神を正しく認識し、心から愛し、神の栄光をあらわし、神を賛美するためです。

知性・意志・感情などの諸能力は、人間が自由意思を持つ人格的な存在であることを意味しています。知性は正しく神を認識するために。意志は神の律法を正しく行うために。感情は神と神の律法を喜ぶために。心はこれらの諸力を挙げて、神の栄光をたたえるためにあるのです。

アダムにおける行為の契約は、このためにこれらの諸力すなわち、自由意思を用いるかどうかを試す神の特別な摂理の行為でした(ウェストミンスター小教理問答 第16問)。人間が神の像に創造されたということは、自覚的に神のご意志である律法を自分で選択して応答することによって神の栄光をあらわし、神を喜ぶ存在であるということであります。

 

 

「けれども人間は悪魔にそそのかされて故意の不従順によって自分自身とすべての子孫とからこの賜物を奪ってしまったのです。」

自分自身とすべての子孫とから、というのは契約を前提しての言葉です。第7問においても、「人間の腐敗した罪の性質が私たちの最初の祖先、アダムとエバの堕落と不従順からきている」と述べていました(ローマ5:12-21参照)。また、この9問は「故意の不従順によって」と表現することで、この背反が自由意思の行使の結果であることを語っています。

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。』(ローマ5:12)

 

すべての人はアダムにおいて罪を犯しました。その心はさかさまになり、本性は腐敗し、神を愛し隣人を愛する神の律法に無能力となったのです。人間は生来、神と隣人を憎む傾向を持って、神の敵対者となりました。

しかし、神の律法は普遍的な神のご意志であり、堕落後も依然として、神を愛し、隣人を愛するように求め続けておられます。人間の堕落した本性の水準に合致するように要求を下げることは神の正義ではなかったのです。